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2013年2月3日日曜日

『カラマーゾフの兄弟』(下):ドストエフスキー

正直同じ作品で三つも続けてレビューを書いていると、飽きてくる。もう次の作品に移りたいという浮気心がムズムズしてくるのだが、そこは私、案外律儀と言うか真面目な人間で、三つ書くと言ったものは三つ書かなければ気が済まない性分である。なので今回も頑張って書く。

さて、この作品に付いて最後に考えたいのは、この作品は当初どのような筋書きを予定されていたかという事である。というのも、作者の言葉で最初に書いてある通り、この作品は当初二つ物語から構成される予定だったのであり、結局そのうちの一つを書き終えた所でドストエフスキーが亡くなってしまった為に、もう一つが書かれずに終わったのである。この作品はそういう意味で未完の作品なのである。一般的に未完の作品扱いをされないのは、この物語が素晴らしい所で終わっており、読後感がよく、小林秀雄氏が言うように「およそ続編というものが考えられないくらい完璧な作品」であるからである。もう続きなんか書かなくても、これで終わりでいいんじゃないの?というわけだ。

私もこの作品を未完の作品とは考えていない。むしろ続編など書かれなくて良かったくらいに思っている。物語の最初を良く読んでみると、ドストエフスキーがこの後に書こうとしていた事が朧げながら見えてくる。

アレクセイ・フョードロウィチ・カラマーゾフは、今からちょうど十三年前、悲劇的な謎の死を遂げて当時たいそう有名になった。

私は結構長い間これをフョードルのことと読み違えていて、フョードルがああした形で惨殺されたのはまあ確かに「悲劇的な謎の死」ということになるだろうと思って納得していたのだが、よく読んでみるとこれはフョードルではなく「アレクセイ」つまりアリョーシャの事なのである。恐らく、アリョーシャは書かれずじまいに終わった続編の中で、悲劇的な謎の死を遂げる事になっていたのであろう。一節によるとこの作品は当初『大罪人の生涯』という題名で書かれ、アリョーシャが断頭台に登る予定になっていたとか、そういう話も聞くが、真偽は定かではない。が、アリョーシャに悲劇的な死が訪れた事は間違いないわけだから、たぶん当たらずとも遠からずといった所だろう。

しかしそれが結局書かれずに終わったというのは何という救いだろう。神の存在を信じ、あの世での再会を信じていたアリョーシャがその後その信仰と善行にも関わらず悲劇的な死を遂げなければならなかったとしたら、この小説はとんでもないニヒリズム小説に堕していたに違いないのだ。そんなところは正直見たくもない、というのが大方の読者の見解として一致する所だろう。この小説の価値は、ドストエフスキーの化身であるアリョーシャが父を殺され、兄を誤審で奪われ、もう片方の兄も病んでしまうという不条理な環境に身を置きながら、それでも神を信じようとしたその一途さにあるのだ。だからこそこのエピローグに涙せずにはおれないわけだが、この涙すら報われることもなく再びどうしようもない不条理の波に飲まれていくのだとすれば、もう本当に救いようがない。そんな所は書かれなくて良かったのだ。

そういう意味でこの小説は、ドストエフスキーが自らの死をもって神の存在を証明した救済の書であるということができる。この小説は神によってここで書く事を止められ、そしてそこで死んでしまったドストエフスキーは最後には自ら信じたいと願っていた神によって救われたのである。『カラマーゾフの兄弟』を巡るドラマの真の主人公は、ドストエフスキー自身だったと言えよう。


2013年2月2日土曜日

『カラマーゾフの兄弟』(中):ドストエフスキー

前回は(上)と書いておきながら、上巻の話には全く触れずに終わってしまった。概略というか全体的にこの作品の何が良いのか、という事に終始しているのだが、じゃあ今回はというとやっぱり全体的な話になってくるのではないかと思う。何頁何行目で誰がどうしたというような細かい話は、私がここに書くよりも、本書を読んでもらった方が早いと思うからだ。

最も興味があるのは、ドストエフスキーがどうやってこのような緻密な物語を書いたのかということだ。普通のプロットの作り方じゃあなかなかあの緻密さと思想の深さは出せないだろう。勿論ドストエフスキーが所謂天才というやつだったら、思いつくままに書くだけであれができあがるのかも知れないが、それにしたって普段の、意図しない段階での準備がかなり必要だったはずだ。

恐らく、ドストエフスキーのライフワークとして、無神論の研究というのがあったのだと思う。この作品に限らず、彼の作品には必ず無神論者が登場し、神はいるのか?という問題に対して問いかけ続けているからだ。また噂では、彼は図書館中の無神論に関する本を読破してから『カラマーゾフの兄弟』を書いたとか。この作品のスゴさは何も無神論思想の深さだけではないのだが、こうした一つの要素にこれだけの労力を惜しみなく供するところが、やはりプロ意識の強い作家だという事を思わせる。

しかし誤解しないでもらいたいのが、ドストエフスキー自身が無神論者であったわけではないということだ。彼は無神論という思想をこれでもかと研究し、考え続けたが、どうしても神の存在を諦められない。丁度作中のアリョーシャの様に、「ああ、この世に神様なんていないんだ」と思わせられるような出来事にいくつも直面しながら、それでも神様はいるんだ、ということを信じたかった人なのだと思う。だからこそ本作のエンディングは、あれだけ踏んだり蹴ったりの状況に見舞われたアリョーシャは、それでも子供達と明日を信じるという素晴らしいものになったのだろう。

無神論というのは、その時代のロシアに流行していた考え方で、同じドストエフスキーの『悪霊』でも同じテーマで書かれている。そこでは無神論を思想する秘密結社が暗躍する。古くはニーチェが『ツァラトゥストラ』で語った、神は死んだ、という実存主義というものからきている。だからニーチェを読んでからドストエフスキーを読むと、まるで解説書を読んだようによく分かるのである。ドストエフスキーはそれほど無神論というものをよく研究していたのだろう。あのニーチェの難解な哲学を読み解いて、それを自分なりに噛み砕いて、自分の言葉に置き換えて物語を構築したということになる。その才能にはもはやあっぱれである。名作を書くには研究とそれを続ける情熱が必要なのかも知れない。

それでもなぜドストエフスキーは無神論に迎合する事が出来なかったのか?それは恐らく自身が芸術家だからだと、私は考えている。神がいないということは、物事の意味なんてものはなく、偶然に、ただ「それがあるところものとして」存在しているに過ぎないという事になる。すると芸術の価値などというものはいの一番に否定されてしまうのだ。何の感情も何の妙味もない、彼の表現を借りれば、「人間は五寸釘のように無機質な存在になってしまう」のだ。ドストエフスキーはそれを危惧した。芸術家として、この世の一片として何の意味も持たずに白日の下に晒されて、そこに何物も隠れてはいない、どんな意味も含まれてはいない。そういう世界観が芸術家としては許し難いものだったに違いない。

だから、ドストエフスキーが無神論をこれほど丹念に研究したのは多分、それに共感するからではなくむしろ共感できなかったからだ。自分の嫌いな物ほど興味が湧くというのは何だか分かる話である。そして芸術の敵と見ていた無神論を研究し、それを元に最高峰の芸術を仕上げたのだから、「敵を知る事は汝を知る事だ」というのは正にこれである。『カラマーゾフの兄弟』こそ無神論の氾濫する逆境にあって書かれた作品であり、作家の不撓不屈の精神を代弁するものかも知れない。


2013年2月1日金曜日

『カラマーゾフの兄弟』(上):ドストエフスキー

いよいよ『カラマーゾフの兄弟』である。別にテレビドラマ化されるから記念に書くわけではない。私は前々からこの作品が好きだったのだ。これはよく言われているように、あらゆる角度からして完璧な作品なので、よほど気合いを入れて書かなければならない。なお私が読んだのは新潮社の原卓也訳のみなので、光文社とかその他から出ているものに関しては全く知らない。なので私の書評もそれにあわせて上中下の三回に分けて書こうかと思う。

さて、そこまで書いておいてなんだが、こういう芸術の世界において「完璧」とか「頂点」とか言われるものにはよくよく注意しなければならない。冷静に考えれば、そんなことはあり得ないからである。そこにはどうにかしてその作品を持ち上げたい、その事で少しでもその作品のカリスマ性にあやかりたいというような不純極まるバイアスが絶えず働いている。確かに小説の質において普遍的な価値基準や客観的レベルというのはある程度存在はするが、それも一つの指標であって、絶対ではない。もし誰が見てもこの小説が完璧なのだったら、これ以降に書かれた小説は無用であり、この小説一つあれば他は読む必要がないということになる。そんな馬鹿な話はない。

しかし、それでもこの小説を完璧だと評したくなる気持ちはとてもよくわかるのだ。以下にその理由を思いつく限り列挙してみたい。

・サスペンス、恋愛、宗教、家族兄弟愛といった様々なテーマを含んだ複雑なストーリーが上手く絡み合い、よくまとまっている。その上最後の終わり方が感動的であり、読後感がよい。伏線がきちんと回収されていなかったり、無意味な描写が多かったり、あるいは必然性のないバッドエンドだったりすると読後感が悪いが、そうしたことがこれだけの複雑さ、長さの作品において全くないというのはやはりすごい。

・宗教哲学的な、「神はいるのか?」という問題について、様々な人物の口を借りて深いところまで論じられる。中でも「大審問官」は有名であり、これ一つで一つの作品にしても良いくらい衝撃的な内容である。無神論者のイワンがこの章一つ分くらいずっとしゃべりまくっているのだが、その演説口調が熱く、しかも神の存在を前提に無神論を説くといったような斬新な発想が飛び出すので、始終鳥肌がおさまらない状態だ。

・登場人物のキャラクターが皆はっきりしており、魅力的だ。乱暴者のドミートリー、知的なイワン、敬虔なキリスト教徒のアリョーシャは勿論、父親のフョードルも道化役者のようだし、皮肉屋のスメルジャコフとか、女もカテリーナやグルーシェニカなどあくの強いキャラが多い。人物が覚えやすいというのは実はかなり大きなポイントだ。

・ドストエフスキー特有のユーモア溢れる筆致で複雑な人間関係を細部に至るまで説明しきっている。ドストエフスキーのスゴさの一つは、説明文が延々と続くのに何故か退屈しない、むしろ面白い所である。これは本作以外でも見られる特徴である。これだけ長いのに退屈せずに一気に読めるというのはスゴい。

・挿入が素晴らしい。「大審問官」もその一つだが、ゾシマ長老が死ぬ前に弟子達に言い聞かせたことをアリョーシャが書き留めたものや、ドミートリーを裁く検察官と弁護士のやりとり等が印象的だ。挿入とは要するに、三人称が基調の物語の中に一人称の物語を挟む事で、読者を物語の中に引き込む為の絶妙なアクセントになっているという事だ。

・これだけ緻密なフィクションを書いておきながら、この作品はそれでも純文学と言う扱いをされる。それは人の感情の細かさや機微において、他の追随を許さない程の表現力で描ききっているという事が評価されているからこそのものだろう。そのため大衆小説にしばしば見られるようなお粗末な表現で人間関係普遍化の波に飲まれる事がない。

要するにマクロだけではなく、ミクロから見ても、この作品は完璧なのだ。これはバイブルだ。単に小説というくくりに縛られているのは実に勿体ない。純文学とか、大衆文学とか、そうしたカテゴリーを超えた人生の謎である。

何だかよく分からなくなってきた。本当はこの後にも色々と名作たる所以を書きたかったのだか、今から細かい話を書き綴っていくと長くなるので、具体的な話は次回に譲ろう。