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2013年2月2日土曜日

『カラマーゾフの兄弟』(中):ドストエフスキー

前回は(上)と書いておきながら、上巻の話には全く触れずに終わってしまった。概略というか全体的にこの作品の何が良いのか、という事に終始しているのだが、じゃあ今回はというとやっぱり全体的な話になってくるのではないかと思う。何頁何行目で誰がどうしたというような細かい話は、私がここに書くよりも、本書を読んでもらった方が早いと思うからだ。

最も興味があるのは、ドストエフスキーがどうやってこのような緻密な物語を書いたのかということだ。普通のプロットの作り方じゃあなかなかあの緻密さと思想の深さは出せないだろう。勿論ドストエフスキーが所謂天才というやつだったら、思いつくままに書くだけであれができあがるのかも知れないが、それにしたって普段の、意図しない段階での準備がかなり必要だったはずだ。

恐らく、ドストエフスキーのライフワークとして、無神論の研究というのがあったのだと思う。この作品に限らず、彼の作品には必ず無神論者が登場し、神はいるのか?という問題に対して問いかけ続けているからだ。また噂では、彼は図書館中の無神論に関する本を読破してから『カラマーゾフの兄弟』を書いたとか。この作品のスゴさは何も無神論思想の深さだけではないのだが、こうした一つの要素にこれだけの労力を惜しみなく供するところが、やはりプロ意識の強い作家だという事を思わせる。

しかし誤解しないでもらいたいのが、ドストエフスキー自身が無神論者であったわけではないということだ。彼は無神論という思想をこれでもかと研究し、考え続けたが、どうしても神の存在を諦められない。丁度作中のアリョーシャの様に、「ああ、この世に神様なんていないんだ」と思わせられるような出来事にいくつも直面しながら、それでも神様はいるんだ、ということを信じたかった人なのだと思う。だからこそ本作のエンディングは、あれだけ踏んだり蹴ったりの状況に見舞われたアリョーシャは、それでも子供達と明日を信じるという素晴らしいものになったのだろう。

無神論というのは、その時代のロシアに流行していた考え方で、同じドストエフスキーの『悪霊』でも同じテーマで書かれている。そこでは無神論を思想する秘密結社が暗躍する。古くはニーチェが『ツァラトゥストラ』で語った、神は死んだ、という実存主義というものからきている。だからニーチェを読んでからドストエフスキーを読むと、まるで解説書を読んだようによく分かるのである。ドストエフスキーはそれほど無神論というものをよく研究していたのだろう。あのニーチェの難解な哲学を読み解いて、それを自分なりに噛み砕いて、自分の言葉に置き換えて物語を構築したということになる。その才能にはもはやあっぱれである。名作を書くには研究とそれを続ける情熱が必要なのかも知れない。

それでもなぜドストエフスキーは無神論に迎合する事が出来なかったのか?それは恐らく自身が芸術家だからだと、私は考えている。神がいないということは、物事の意味なんてものはなく、偶然に、ただ「それがあるところものとして」存在しているに過ぎないという事になる。すると芸術の価値などというものはいの一番に否定されてしまうのだ。何の感情も何の妙味もない、彼の表現を借りれば、「人間は五寸釘のように無機質な存在になってしまう」のだ。ドストエフスキーはそれを危惧した。芸術家として、この世の一片として何の意味も持たずに白日の下に晒されて、そこに何物も隠れてはいない、どんな意味も含まれてはいない。そういう世界観が芸術家としては許し難いものだったに違いない。

だから、ドストエフスキーが無神論をこれほど丹念に研究したのは多分、それに共感するからではなくむしろ共感できなかったからだ。自分の嫌いな物ほど興味が湧くというのは何だか分かる話である。そして芸術の敵と見ていた無神論を研究し、それを元に最高峰の芸術を仕上げたのだから、「敵を知る事は汝を知る事だ」というのは正にこれである。『カラマーゾフの兄弟』こそ無神論の氾濫する逆境にあって書かれた作品であり、作家の不撓不屈の精神を代弁するものかも知れない。


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