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2013年2月1日金曜日

『カラマーゾフの兄弟』(上):ドストエフスキー

いよいよ『カラマーゾフの兄弟』である。別にテレビドラマ化されるから記念に書くわけではない。私は前々からこの作品が好きだったのだ。これはよく言われているように、あらゆる角度からして完璧な作品なので、よほど気合いを入れて書かなければならない。なお私が読んだのは新潮社の原卓也訳のみなので、光文社とかその他から出ているものに関しては全く知らない。なので私の書評もそれにあわせて上中下の三回に分けて書こうかと思う。

さて、そこまで書いておいてなんだが、こういう芸術の世界において「完璧」とか「頂点」とか言われるものにはよくよく注意しなければならない。冷静に考えれば、そんなことはあり得ないからである。そこにはどうにかしてその作品を持ち上げたい、その事で少しでもその作品のカリスマ性にあやかりたいというような不純極まるバイアスが絶えず働いている。確かに小説の質において普遍的な価値基準や客観的レベルというのはある程度存在はするが、それも一つの指標であって、絶対ではない。もし誰が見てもこの小説が完璧なのだったら、これ以降に書かれた小説は無用であり、この小説一つあれば他は読む必要がないということになる。そんな馬鹿な話はない。

しかし、それでもこの小説を完璧だと評したくなる気持ちはとてもよくわかるのだ。以下にその理由を思いつく限り列挙してみたい。

・サスペンス、恋愛、宗教、家族兄弟愛といった様々なテーマを含んだ複雑なストーリーが上手く絡み合い、よくまとまっている。その上最後の終わり方が感動的であり、読後感がよい。伏線がきちんと回収されていなかったり、無意味な描写が多かったり、あるいは必然性のないバッドエンドだったりすると読後感が悪いが、そうしたことがこれだけの複雑さ、長さの作品において全くないというのはやはりすごい。

・宗教哲学的な、「神はいるのか?」という問題について、様々な人物の口を借りて深いところまで論じられる。中でも「大審問官」は有名であり、これ一つで一つの作品にしても良いくらい衝撃的な内容である。無神論者のイワンがこの章一つ分くらいずっとしゃべりまくっているのだが、その演説口調が熱く、しかも神の存在を前提に無神論を説くといったような斬新な発想が飛び出すので、始終鳥肌がおさまらない状態だ。

・登場人物のキャラクターが皆はっきりしており、魅力的だ。乱暴者のドミートリー、知的なイワン、敬虔なキリスト教徒のアリョーシャは勿論、父親のフョードルも道化役者のようだし、皮肉屋のスメルジャコフとか、女もカテリーナやグルーシェニカなどあくの強いキャラが多い。人物が覚えやすいというのは実はかなり大きなポイントだ。

・ドストエフスキー特有のユーモア溢れる筆致で複雑な人間関係を細部に至るまで説明しきっている。ドストエフスキーのスゴさの一つは、説明文が延々と続くのに何故か退屈しない、むしろ面白い所である。これは本作以外でも見られる特徴である。これだけ長いのに退屈せずに一気に読めるというのはスゴい。

・挿入が素晴らしい。「大審問官」もその一つだが、ゾシマ長老が死ぬ前に弟子達に言い聞かせたことをアリョーシャが書き留めたものや、ドミートリーを裁く検察官と弁護士のやりとり等が印象的だ。挿入とは要するに、三人称が基調の物語の中に一人称の物語を挟む事で、読者を物語の中に引き込む為の絶妙なアクセントになっているという事だ。

・これだけ緻密なフィクションを書いておきながら、この作品はそれでも純文学と言う扱いをされる。それは人の感情の細かさや機微において、他の追随を許さない程の表現力で描ききっているという事が評価されているからこそのものだろう。そのため大衆小説にしばしば見られるようなお粗末な表現で人間関係普遍化の波に飲まれる事がない。

要するにマクロだけではなく、ミクロから見ても、この作品は完璧なのだ。これはバイブルだ。単に小説というくくりに縛られているのは実に勿体ない。純文学とか、大衆文学とか、そうしたカテゴリーを超えた人生の謎である。

何だかよく分からなくなってきた。本当はこの後にも色々と名作たる所以を書きたかったのだか、今から細かい話を書き綴っていくと長くなるので、具体的な話は次回に譲ろう。


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