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2013年1月30日水曜日

中島義道

今日は少し趣向を変えてみよう。今日は存命の哲学者、作家、エッセイストの中島義道についてだ。彼は多分、本を読む人のうちではちょっとした有名人だろう。私は彼の『差別感情の哲学』という本を読んで、すっかり彼の文章に共感し、それから何冊も彼の本を買っては貪り読み続けたものである。



一般的なイメージとしては、かなり虚無的な、ぐれた、反社会的なことを書く人だというのが浸透していると思う。『人生に生きる価値はない』とか『どうせ死んでしまうのになぜ今死んではいけないのか』というようなタイトルが目につく以上、ある程度仕方のない事かも知れない。『ぐれる!』とか、かなりストレートなものもある。

けれども、私はそうとは思わないのである。割と虚心坦懐に、ありのままを観察しようとしている人だと私は思っている。そうすると世間一般の常識に沿わない場合が多々あるため、反社会的だとか思われざるを得ない。だがやはり哲学者というものはそういうものと昔から相場が決まっていて、常識を疑う、そして理屈で証明されたことは如何に非常識なことであっても厭わずに口にするというのはもう哲学者の仕事のようなものだから、そういう「哲学的」営みを彼も踏襲しているに過ぎないのであろうと思う。だから彼が「希望を持って行きよう」と書いた時には、それはかなりの重みを持っていた。私は涙しそうになった。

何でも、少年時代、青年時代を通じて不幸な人だったらしいのだ。勉強しか好きな事のない人だったらしい。東大文科一類に現役合格する程の学力の持ち主でありながら、内気で繊細で、思った事が口に出来なく、親にも教師にも周りの空気にも抗う事が出来ず、そのくせ偏食だとか、学校のトイレにいけないとか、体育が苦手だとか、そういうコンプレックスを始終感じ続け、そういう自分を変えたいと思ったのか何でも良いから反抗したいと思ったのか、大学では法学部に進まずに哲学の道を選び、そうすると就職する事も出来ず、家に引きこもり、「いつか死んでしまう」と布団の中で考え続け、やっと予備校講師の職にありついたと思ったら全然人気が出ず、30歳を超えてからドイツに哲学をする為の私費留学をして・・・。というようなもう波瀾万丈どころかどうしてそんなにしなくてもいい苦労を自ら選んでし続けるのだろうという人だ。

やはりこうした波瀾万丈な人生を選んだ人は、自分語りが好きだ。自分はこんなに辛くてこんなに可哀想で、という話が実に多い。それには私も若干食傷気味である。だがそこから導き出された自由な発想と、奔放な反逆精神は何とも痛快である。読み物としては半端じゃなく面白い。真面目すぎて頭の固い人は是非一度読んでみる事をお勧めする。人生観が変わること請け合いである。

しかし影響されすぎると、それはそれで良くない。良くないというより辛い。何が良くて何が悪いのか、何が正しくて何が間違いなのか、考えても考えても分からなくなってくる。哲学、というのは多分そういうもので、私が哲学にハマるきっかけになったのも実はこの人だったのだが、哲学をしたての頃はそれはそれは辛かった。もう何もかもが間違いのような気がして、何一つ寄る辺のない人生を送っていた。あくまでこれは一つの考えで、あくまで自分は自分というスタンスを貫いてもらいたい。

代表的な書籍のリンクを貼っておく。お好みでチョイスしてほしい。





哲学的主著はこれだろう。


2013年1月29日火曜日

『ねじまき鳥クロニクル』:村上春樹

お知らせ:『芸術的生活を目指すブログ』から『文学的生活を目指すブログ』に改題しました。何か文学のことしか書かなそうな気がするので。


流行作家、という言葉は、昨今村上春樹の為にある言葉のようである。村上春樹という作家はそのくらいに現代作家にとって神格化された作家である。新人の作家がちょっとネガティブなことを書こうものなら即座に「村上春樹亜流」などと揶揄される。尤もこれにはたぶん別の事情もあって、村上春樹は芥川賞を逃してからというもの日本の文壇と仲が悪く、海外で活躍する彼を日本の文壇が嫉視するきらいもなきにしもあらずである。しかしそうした現象も村上春樹の存在の大きさを示すものと見ることができるであろう。

勿論、そういう作家は世間一般においても風当たりは強い。好きな人がいる分嫌いな人も多いだろうと思う。私自身はと言うと、実はあんまり好きではないのである。いや、よく理解できていないだけなのだと思う。上手いのはわかる。間違いなく上手い。飾り気のない文体も、人物描写も、何気ない一言も、ストーリーも設定も感心するほど上手いのである。クリエイティブな才能があるんだろうなあと思う。だがそれでも面白いとは思わない。何かが違うのである。核心を突いていないというべきか、命をかけるほどの必死さがないというべきか、とにかく上手いなあと思うほどには好きになれない。

誰に似ているかと言えば、第一に、森鴎外に似ている。というと大抵驚かれる。だが精神性とか、創作に対する態度が似ているのだ。鴎外には、文学を人生のそのものとして捉える、愚かしいまでの必死さがない。精神的に追い込まれてもいない。ただ頭のいい人が教養の一つとして、仕事の一つとして創作に携わっているのだ。創作だけではなく翻訳も、評論もそうである。何でもできる器用な人なので、何にも悩まない。というか悩むくらいなら最初からやっていないだろう。そこには余裕が感じられる。そしてどこか冷めている。

村上春樹は勿論、軍医ではない。作家になる前はジャズバーを経営していたそうだが、とっくに専業作家である。決して片手間に文学をやっているわけではない。バックグラウンドは鴎外とは似ても似つかない。しかし創作に対して持っている冷めた態度は妙に似ている。器用で、何でも書ける。歴史、サスペンス、SF、恋愛、評論、ルポルタージュ、エッセイなどなど、何でもいける。そして勿論、翻訳もプロだ。お分かりだろうか?そこに一切自分というものが介在していないのだ。創作はあくまで創作であり、決して人生哲学的や苦悩の結晶ではないのである。純文学とか言うと、恐ろしく苦しみ抜いた自分の思想語りが好きな人が多い。そういう作家が好きな人は、恐らく村上春樹を好きになれないだろう。私もそうである。しかし、自分の思想とか哲学とかよりは、創作を純粋に創作として楽しんでいた方が長続きしそうだなと思った。

そうそう、これはあまり深入りしないけれども作家以外だとポール・マッカートニーに似ている。ポールは何となく器用すぎて好きになれない、特にソロ作品が、というビートルズマニアは結構多いような気がする。そう、ジョン・レノン的な人生そのものの投影がないのである。村上春樹はそういう意味でポール的である。

というわけで『ねじまき鳥クロニクル』について何も書かないまま結構な文字数になってしまったが、これは村上春樹の器用さ、クリエイティブさが遺憾なく発揮された作品と言って良いように思う。物語の間に割り込んでくる挿入が素晴らしい。恐らく、ドストエフスキーに影響を受けたのだろう。


2013年1月27日日曜日

『山の音』:川端康成

川端康成は、日本人初のノーベル文学賞作家という以外に特に目立った特徴のない作家のように思える。勿論、『雪国』や『伊豆の踊り子』などは有名だし、国語の教科書にも載っているくらい国民的な作家である事に間違いは無く、また文壇での地位もよほど高かっただろう。しかしそれでも川端康成の文体、と言われて「ああ、ああいう感じね」と咄嗟に思い浮かべる事は難しい作家だと思う。例えば、志賀直哉(簡素平明)とか、三島由紀夫(豪華絢爛)とか、安部公房(理屈っぽい)とか、太宰治(自虐的)とか、その他個性の強い作家はもう名前を聞くだけで大体どんな作風なのかというのが想像できる。大江健三郎のような代表作の名前すらぱっと出てこないような作家でも、文体は陰気くさく、特徴的ではある。が、川端康成はまあ日本的な、美しい文章を書く人だという事だけは分かるけれども、飛び抜けて特徴的な毒々しさといったようなものは、印象にあまりない。少なくとも私にとっては、川端康成はそんな作家だった。

ところがこれが大きな間違いで、川端康成ほど毒々しい、狂気に満ちた作家はなかなかいないのである。いや、そうは言ってもぱっと見た感じそういう気はしない。やはり文体はどことなく大人しくて、少し読んだ程度だと「きっと真面目な事が書いてあるんだろうな」という印象を抱きやすい。しかしきちんとその内容まで踏み込み、かつ一定の量を読んでみると、実はドロドロとした人間同士の愛憎がかなり緻密に描かれているのである。これはなにも『眠れる美女』や『みずうみ』など異常な性癖を持つ主人公を描いた作品の事ばかりを言っているのではない。一見普通の人たちを描いた作品でも実は昼ドラ的な毒々しさ、異常さが含まれているのである。

『山の音』はそんな小説の代表格である。信吾という還暦を過ぎた(当時としては)老人が主人公であるが、この爺さんが一見まともなふりして、実はかなりくせ者なのである。いや、この爺さんだけではなくこの爺さんの一家が皆くせ者ぞろいで、なかなか一筋縄にはいかないのである。信吾の妻、保子は亡き姉に似ずに醜かった。信吾はその昔、保子の姉に憧れながらも、その妹と結婚した。そして信吾は内心、生まれてくる娘が保子を伝って保子の姉のように美しく生まれてはくれないかと密かに期待していたのだが、生まれてきた娘(房子)は母親より更に醜かった。その房子がヤクザ者(哀川)の家に嫁いだが、不仲になり、娘と赤ん坊を連れて出戻ってくる。その醜い出戻りの娘を信吾や保子は持て余しながらも、自分の娘なのだから身から出た錆と内心諦め、それでも頭を悩ませているのである。そして極めつけは赤ん坊に乳をやる房子を信吾が見たときの描写がこれだ。

顔はみっともないが、乳は見事だった。

アホである。大きい方の房子の娘も何だか不気味な性格で、蝉の羽を毟って、芋虫のようになったそれをみて楽しんでいるというのである。しかも自分のそんな猟奇的な姿に周りの大人が誰も関心を向けていないと悟るや否や、それをポイッと捨ててしまったりする。保子はそういう不気味な孫娘を嫌っている。

房子の弟(信吾の息子)の修一というのがいるのだが、これがまた手の付けられない程のプレイボーイで、菊子という妻がいながら外で他の女と遊び歩いているのである。信吾は菊子を不憫に思いながらも、その可憐さに淡い恋心を抱く(息子の嫁に!)。修一の素行の悪さを何度と無く咎める信吾ではあったが、菊子が身ごもった子供を流産してしまい・・・。

他にも色々あるのだが、きりがないのでこの辺にしておこう。とにかくこれだけでもかなり屈折した家族である事が伺い知れるだろう。川端康成とはとにかく、それくらい屈折した作家なのである。

そもそもこの作家は幼少時代に数多くの近親者の死に見舞われており、非常に数奇な運命をたどってきた人なのである。そういう幼い頃に味わった天涯孤独の運命の無情さが、身に沁み付いているのかも知れない。そう思うと72歳にもなってガス管くわえて自殺するのも(これには諸説あるが)、何となく彼らしい最期のような気がしてくる。



『掌の小説』は個人的におすすめである。掌篇小説というやつで、3ページくらいの短い小説を集めたものなので、隙間時間にさっと読む事が出来ていい。それでいて結構質も高い。

2013年1月25日金曜日

『1984』:ジョージ・オーウェル

そう言えばこちらのブログで紹介するのを忘れていたが、右の「管理人のブログ」のところにそれぞれ「夏目漱石研究」「芥川龍之介研究」「太宰治研究」「三島由紀夫研究」というブログへのリンクが貼ってある。研究とは言ったものの、そんなに大それたものではなく、そもそも私は文学部を出ているわけでも専門的な研究をしている訳でもないのでそんな学術的なものが書けるはずもなく、ただ読者の方々の読書のきっかけになってくれればいいなという気持ちで綴っている。こちらは毎日更新というわけにもいかないが、なるべく二三日おきには更新するようにするので、こちらも是非ご覧頂きたい。

さて、本題に入ろう。『1984』は世界的名著であろうが、私にとっても本作はかなり衝撃的な作品で、何度も読み返した上に原著まで読むに至ったくらいに好きな作品なので、書かせて頂こう。

あらすじを書こうと思ったが、面倒なのでウィキペディアなどでご覧頂きたい。が、たぶんネタバレしているので、きちんと作品を楽しみたい方は本を読んだほうがいいだろう。いや、絶対に読んだ方が良い。これはもう読むしかない。恐ろし過ぎて鳥肌が立つくらいの作品だ。

この作品は通常SFにカテゴライズされるらしく、確かにテレスクリーンや、自動小説執筆機、あるいは記憶穴など、未来の世界を描いている以上、科学技術的にはSF的な要素もあるに違いない。だが別にそうした技術的な発想がそれほど飛び抜けて卓抜している訳ではない。というか1984年どころか2013年にもなる昨今、ここに書かれているくらいのことは技術的には殆ど可能になっているだろう。

この小説はSFではなく、哲学小説として読むべきだ。なぜなら、「全てを疑って考える」という哲学の原則の重要性をこれほどにまで身にしみて実感させる小説はないからだ。私たちは基本的にだまされているのである。権力者に都合の良いように教育、統制され、しかもそれを当然の正義と見なすべく促されているのである。例えばある一定の言語を使ってものを考えると言うことは、それ自体で一つの思想統制を受けていると言っていい。論理とは言語を前提としており、言語によって「当然の理屈」だって恣意的に変えられてしまうからだ。例えば数学という最も厳密な論理性をを要求する学問でも、ある一定の言語の中でのみ論理的であるのであり、他の言語の下では「2+2=5」になるかも知れないのだから(これは本作の中で実際に出てくる数式である)。つまり「当たり前のこと」なんて何もないのである。主人公のウィンストンは党に対して反抗的な意志を持っていたが、拷問を受けつつ真実を諭されるにつれ、「実のところ間違っているのは私の方ではないか?」と思わされるにいたり、ついには専制君主たるビッグブラザーを心から愛するようになる。それは何者かによって強要されたのではなく、彼自身が心の底からそう思っているのである。より正確に言えば、心からそう思うように仕向けられたのだが。読んでいるこちらさえ「ビッグブラザーや党が悪役である」という観念が揺らいでくるのだ。「確かに個人の自由など何の役にも立たないのかも・・・」なんて思うに至るのだから、本当に恐ろしい。何が正しくて何が間違っているのか、本作を読み終える頃にはさっぱりわからなくなっているのである。

反共産主義、反集産主義だとか、あまり政治的なことは考えなくて良いように思う。なぜならこういう生まれながらにして思想、行動、言論を統制下に置かれ、それを全く疑問視できない、疑問に思う能力すら与えられない社会というのは現代の日本においてもあり得る話であるからだ。勉強ができた方が良い、スポーツが得意な方が良い、先生からほめられた方が良い、友達が多い方が良い、異性にもてた方が良い、仕事ができた方が良い、素直な性格の方が良い、お金を持っている方が良い・・・。ありとあらゆる思想統制、価値観の画一化がこの国においても行われているではないか。そしてそこに染まれない者を排斥し、いじめ、心からその価値観に染まるか自殺するまで追い込む。そしてそれは暗黙の「正義」となっており、立派な人物の特徴とまで考えられるに至っている。しかしよく考えてみればその価値観に大して意味はなく、その価値観を信仰する者が多いからこそそうすることに意味が生まれてくるに過ぎない。隠れたファシズム、全体主義。正にこれは日本人こそ読むべき本であるかも知れない。

村上春樹が最近『1Q84』なる長編を出したが、私は『1984』が何となく剽窃されたような気がして、そのタイトルを見たときに少々苛々した。しかし何か関係があるのかも知れないので、買って読んでしまった(思うつぼ)。すると中にはこういう趣旨のことが書いてあった。

今はビッグブラザーの時代ではない。ビッグブラザーはもういない。なぜなら誰かが人民を統制しようとすると、「見ろ!あいつはビッグブラザーだ」と言われてしまうからだ。ビッグブラザーはもう表れない。これからはリトルピープルの時代だ。

しかし「ビッグブラザーは悪者である」という価値観さえ疑われる世の中で「見ろ!あいつはビッグブラザーだ!」と言われたくらいで、ビッグブラザーはいなくならない。そういう表面的な勢力争いの話ではないのである。指導者を疑うことすら既に仕組まれた思想統制の一つなのかも知れないのだ。『1984』に書いてあるのはそういうことなのだ。

組織、集団、国家などに身を置いている以上、この摂理を免れることは不可能だろう。

2013年1月24日木曜日

シュルレアリスムについて

日本でシュルレアリスムの第一人者と言えば、巌谷國士氏である。巌谷氏の『シュルレアリスムとは何か』を読めば大方シュルレアリスムの何たるかが分かるであろう。


シュルレアリスムと言うと、ダリやピカソの絵を思い浮かべるかも知れない。その影響で、何か意味の分からない事をやっているイメージが強いという人も多いと思う。結果的には大体その通りで、シュルレアリスムは文学、美術に限らず意味の分からないものが多い。ここでは文学としてはアンドレ・ブルトン、美術としてはマックス・エルンストを取り上げたいと思うが、いずれもかなり難解、というよりこんなものに最初から意味なんかないんじゃないか?と疑いたくなるくらいの無作為ぶりである。

ここで二つの疑問が浮かぶ。何故こんなにも意味の分からない事になってしまうのか?そしてそれにもかかわらず何故シュルレアリスムはこれほどにまで人々を惹き付けるのか?

最初の疑問については、前述の巌谷氏の著書を読めば解決する。コラージュというを例にとってみよう。コラージュは、写真やイラストなどを組み合わせて構成する美術的手法である。今でこそこれが作為的になり、パソコンで写真を組み合わせる、というような実際的な手法になっているが、実はこれは元々無作為に絵や写真を組み合わせて偶然的成果を得る手法だったのだ。無作為に切り抜き、無作為にぺたぺた貼り付ける。これによってあのマックス・エルンストの百頭女のような訳の分からない絵画が生まれる。要するに、シュルレアリスムとは、自分の意志を介さずに偶然の赴くままに何かを生み出す手法なのである。偶然のなせる技こそ神の意志の投影であると、そういうことなのである。これはアンドレ・ブルトンの文学についても同じで、いわゆる「自動筆記」というものがそれである。とにかくもの凄い速さで書くのだ。何も考えない、ただ頭に浮かんできたままをそのまま書くのである。これでは意味が分からなくて当然である。書いている本人だって、あまりよく分かっていないに違いない。これは所謂「意識の流れを記述する」という手法で、そういう意味では『失われたときを求めて』もそうだし、『ユリシーズ』なんかもそうだろう。先日紹介した『嘔吐』もその部類に入るかも知れない。

では二つ目の疑問はどうしたことだろう?これはどうしても分からない。分からないが確かに惹き付けられている自分がいるのである。憶測で書かせてもらうと、「分からないもの」への興味ではないかと思う。人間、「理解できないもの」ほど恐怖する存在もないが、同時に惹き付けられる存在もないのである。理屈で分かりきっている事、理解できて当然の事など退屈で、詰まらない。他の誰かによって答えの出されている問題など誰も興味を得られないのである。学校の勉強のようなものだ。誰かの計算し尽くした道など、誰も歩みたくはない。しかしシュルレアリスムには、答えが与えられていない、誰にも理解できない「聖域」がある。これは恐らく答えの存在しない問題を考える哲学にも共通した興味であろう。

要するに、感じ方、解釈はそれを受け取る人の自由だというのがシュルレアリスムの魅力だと言う事だ。これぞ芸術の醍醐味である。

代表的な作品を貼っておきます。


2013年1月23日水曜日

『嘔吐』:サルトル

立て続けに日本文学だったので、たまには洋物でいきますか。

サルトルは多分、哲学者として有名だ。確かに哲学は素晴らしい。哲学的主著『存在と無』はその難解さと浩瀚さにもかかわらず、夢中になってあっという間に読み下してしまった。


だがここで紹介したいのは哲学よりも小説だ。サルトルは哲学以上に小説が素晴らしい。『嘔吐』『自由への道』が有名で、戯曲にも「地獄とは他人の事である」という一節で有名な『出口なし』などがある。中でも『嘔吐』は、孤独な男の思索をモノローグとして綴った小説で、個人的には一番好きである。

勿論、小説にも哲学的要素は多分に含まれている。主人公のロカンタンは、何気ない日常からふと哲学の問題を考える上でのヒントを「肌で感じる」のである。

孤独者とは、始終心の中で呟き続けているもので、それを延々と書き連ねているスタイルは、一見退屈で冗長に見えるかも知れないが、実はもの凄くリアルだと思う。そして呟き続ける日常の中でほんのたまに、ふと思いがけず哲学の問題に対して答えが出てきたりするのである。そしてそのとき、主人公は「吐き気」を感じる。この吐き気が実は実存というものへの意識なのである。

物事の裏側には、何もない。ただそれがあるだけである。過去は存在しない、現在がただ目の前に広がっており、それ以上でも以下でもない。それが全てである。何にも「意味」なんかないのだ。その意識が通奏低音のように小説全体に絶えず響いていて、内なる反抗を煮えたぎらせているようである。

サルトルと言えば、ノーベル文学賞を辞退した事でも有名である。それくらい既存の物差しで自分の価値を測られる事が嫌いな人だったのだろう。元来、哲学者にはそんな人種が多いように思うが、そういう意味ではサルトルは生粋の哲学者であるのかも知れない。いや、よく考えてみれば、常識をどこまでも疑い、精神の自由を求める事が哲学なのであるから、反抗こそが哲学ということにもなるようにも思う。


2013年1月22日火曜日

『城の崎にて』『小僧の神様』:志賀直哉

志賀直哉について一言で言い表すとすれば、珍しく毒気のない作家だと言う事である。文章もさっぱりしているし、内容もあまり小難しくない。ゆったりとして鷹揚で、安らぎを感じる文体だ。純文学と言うと、毒気のある作家がむしろ当たり前であって、その中で却って新鮮だ。三島由紀夫とはそういう意味で、真逆の作風である。

『城の崎にて』は私の通っていた高校の国語の教科書にも載っていた。今更説明は不要だと思うが、敢えて書こう。これが何故名文と言われるのか。それは多分、この毒気のなさが関係していると思われる。すなわち、この衒いのない文章で日常の何気ない風景を描きつつ、しかもそこから死とか、その意味とか、哲学問題の核心を見事についているからだ。ゆったりとしていつつ、それでいて実に鋭いのである。

蠑螈は偶然に死んだ。自分は偶然に死ななかった。

この一文に全てが込められている。そしてここに「自分」は生き物の淋しさを感じる。この淋しさとは何か?それは多分、生きているのも、死ぬことにも、大して意味はない、という実存主義的な考えではないだろうか。生き物は偶然生まれ、偶然に死んでいくのである。それらに何の必然性もないのである。死ねば、その人はいなくなる。自分を知っていた人も皆死んで、自分が生きていた痕跡など何もなくなり、その人が存在した事実自体がなくなるのである。なぜなら、その証人がいないからである。そう神はいない、ということだ。これは無神論的な考え方だ。

これは別に生き物や生死だけの問題ではない。この世に何一つ、必然的な存在などありはしないのだ。全てが偶然の産物。そしてその裏には何の意味も本質も隠されておらず、ただただ存在している。物事は、形以上の意味を持たない。これは淋しいことである。ただその理屈を言うのは簡単だが、その淋しさを表現する事は、とても難しい。この作品はあの短い文章の中でそれに成功しているのだ。ある意味これほど秀逸な実存主義文学は古今東西探してもなかなか見当たらない。

『小僧の神様』では、その奇を衒わなさが一種の開き直りのレベルにまで達している。途中で書くのを止めてしまうのである。これはもう離れ業であって、物珍しいという以外の感想はない。


この次は『暗夜行路』について書きたいのだが、手元に本がない。実家においてきてしまった。

2013年1月21日月曜日

『砂の女』:安部公房

東大医学部卒の作家と言えば、恐らく森鴎外か安部公房がすぐに思い浮かぶのではないか。もともと理系の人物でありながら、しかも医学部卒という普通にやっていれば食いっぱぐれることのないであろう肩書きを得ていながら、なお芸術の道に進んだというのは、もう単純にそれが好きだったから、ということだろうと思う。しかも森鴎外は軍医になって医学の道を進む傍らで文学をやっていたが、安部公房の場合は完全に医学の道を捨てきって芸術の道を選んでいるから、凡人にはちょっと想像のできない程の奇抜さである。なおここで森鴎外の場合は文学、安部公房の場合は芸術という言葉を使っているのは、安部公房が文学作家に止まらない活動を展開しているからである。

安部公房と言えば、最近初期の未発表原稿が発見、発表され、話題になった。新潮に掲載されていたもので、私も早速買って読んだのだが、この頃から既に安部公房節とでもいえるような文体は出来上がっていたようだ。幾分哲学的、詩的要素が強く、一般向けではないものの、内面の思索を延々と呟き続けるようなスタイルはこの頃から既に片鱗を見せていたと言って良いだろう。リルケやハイデガーに心酔していたと言うから、その影響下にありながら安部公房独自のスタイルを模索していた時期だったのかも知れない。

『砂の女』は安部公房の出世作であり、恐らく安部公房の作品の中でも群を抜いて有名な作品だろう。『壁』で芥川賞を受賞し、華々しいデビューを飾った安部公房が文壇での地位を決定的なものにしたのがこの作品だ。読売文学賞、フランスで最優秀外国文学賞を受賞しているということである。尤もこの小説は文学賞などおおよそ詰まらないものに思えてくるくらい衝撃的な作品である。

まず、『砂の女』は安部公房の作品の中では比較的ウェルメイドな作品である。起承転結がきちんとあって、ストーリーとしても綺麗にまとまっている。前述の初期の作品に始まり、『壁』もかなりシュルレアリスム的な意匠に満ちていた。また後の作品になると『他人の顔』『密会』『箱男』など、既存の概念から考えるとむちゃくちゃな構成の作品が目白押しである。もう普通の作品では満足しきれない!と言わんばかりに、絶えず実験的な試みを繰り返している。多分、この人は何事も普通では満足しきれない質で、常に新しい事に挑戦したいという意欲が旺盛な人なのだと思う。医学の道をすっぱり切り捨てられたのも恐らくそういう性格からきた選択なのだろう。医者として決められたレールを進む事が詰まらない事のように思えたのかも知れない。話がそれたが、そんな安部公房の中で、本作はかなり「おとなしい」部類に入る。

だがそれでも、初めてこれを読んだ時にはその型破りな表現力に驚いたものである。というより、私が初めて読んだ安部公房の作品がこの『砂の女』だったから、安部公房の文体に全く免疫がなかったということもあろうが、とにかく才気走り過ぎていて落ち着きがなく、しかしそれでいて一々表現が適確なのである。新鮮で、面白くて、読み始めるととまらなくなった。

具体的に言えば、第一に、理系らしく理屈が緻密であり、科学的な根拠には妥協を許さないところである。これはもうはっきりいって馬鹿馬鹿しいくらいに入念である。話の内容からして、本作はどう見ても私小説ではなくフィクションであるが、科学的根拠に余念がないため、妙にリアリティーがある。第二に比喩が適確なのである。一文一文にその巧みな比喩がちりばめられていて、逆に紋切り型の表現が殆ど見当たらない。ドナルド・キーンの解説にもあったように、特に直喩が巧みなのだ。例を示そうかとも思ったが、どれを例示したら良いのか分からないくらいどれも巧妙なので、ちょっと私には選べない。

話の筋としては単純で、昆虫採集に出かけた教師が砂漠の中にある窪地に閉じ込められ、あらゆる手を尽くしても脱出できず、悪戦苦闘し、最後はそこに住み着き社会からは死亡扱いされるというだけの話である。だがその話が恐ろしい程にリアリティーを帯びると、実に泣ける。中でも、下らないマンガ雑誌を読んで思いがけず大声で笑い転げてしまった場面など、我が身を見る思いである。詰まらない社会のしがらみの中に閉じ込められると、人間段々それに慣れてきて、くだらない事にも一喜一憂して過ごせるのだ。ジョージ・オーウェルの1984にも通じる恐ろしい話である。

もしかすると、この作品は巧みな比喩で構成された一つの寓話であり、主人公は現代人の象徴なのかもしれない。すると実体を持たない巨大な力「砂」とは何の例えだろう?1/8mmの、目に見えない粒子。この実体のない力は、私達の中にはびこっているある種の欲望ではないだろうか?社会には夥しい数のそれが渦巻き、私達は一生それに振り回され、時に拙劣極まる喜劇を演じてみせるのだ。それはまるで昆虫に自分の名前を遺したいというような。


2013年1月20日日曜日

『金閣寺』:三島由紀夫


そしていきなり三島由紀夫『金閣寺』である。このブログでは、あえて記事の順序に統一性を持たせず、作家の国籍も年代もてんでバラバラに紹介していこうと思う。なぜなら私が気が向いた時に気が向いたものを書きたいからだ。そうじゃなきゃとても続かないだろう。

さて、三島文学の金字塔と言えばこの『金閣寺』であるわけだが、この作品は私を純文学の世界へと誘った作品と言って良い。これを読むまで、私は大して純文学というものを読んでいなかった。有名なものはちらほらと読んではいたものの、本気で純文学にはまるという事はおよそなかった。読むものと言えば司馬遼太郎の歴史小説であったり、松本清張のミステリーであったり、あとはもう経済系の新書だったりしたわけだ。が、三島由紀夫の『金閣寺』を読んで、その文章の流麗さ、表現の巧みさ、そして形のない抽象概念の深さに圧倒された。その時文字通り私は寝食を忘れてこれを読みふけったのを今でも覚えている。そして今までこうした作品を素通りしてきた自分を悔やんだものである。

尤もその頃に比べて、今の私の三島に対する印象はもっと冷静だ。三島由紀夫の作品は、しばしば子供っぽいとか言われる。今となれば、それも頷ける。確かにそうである。三島作品の中で一般的に人気の高いものと言えば、本作の他に『仮面の告白』『憂国』、あとは四部作『豊饒の海』の第一部『春の雪』などだろう(因みに『潮騒』もそうなのかも知れないが、私はこれが全く好きになれないので外させてもらう)。これらの人気作に共通するのは、気取った文体、くどいくらいの華美な装飾、にも拘らず論理的、哲学的な思考の叙述などである。確かにかっこいいし、確かに美しい、確かにアタマが良さそうである。しかし何となくその辺が子供っぽいのである。思うにこの三島由紀夫という作家はもの凄いナルシストで、かつコンプレックスの塊なのである。人前でカッコつけて、強がらずにはいられない人なのである。プライドが高く、人から侮辱を受ける事が許せない性格なのである(美輪明宏とのエピソードなどは有名である)。そういう性格が高じたものと考えれば、晩年にボディービルなどやっているのも頷ける。なお、その辺のコンプレックスについては、徴兵検査で乙種(甲種不合格)であったのが関係していると言われているが、その辺は有名な話なので深入りはしない。

本題に移ると、この『金閣寺』は三島が31歳の時に書かれた作品である。31歳と言えばまだまだ若い。しかし、十代の頃から執筆を始め、二十代前半では既に文壇で確固たる地位を固め、45歳で死んだ三島のキャリア全体からみれば丁度中盤に当たる頃だ。そして私が個人的に思うのは、三島の文学的才能(つまり美への関心)がこの『金閣寺』を境に衰退していっている、ということだ。これは或る程度の批判を覚悟で言わなければならない。つまりこういうことである。

二十代前半で『仮面の告白』が賞賛され、開花した三島の才能が、この『金閣寺』を以て絶頂に達した。しかしそれ以降、三島の関心はもっと政治的な方向(文壇がどうの、自衛隊がどうの、楯の会がどうの)に移っていき、名声は高まっていく一方だったものの、文学的才能は徐々に枯渇していった。

『金閣寺』の次に刊行された『鏡子の家』は賞賛もされた一方で、批判も多かった。三島は『金閣寺』で評価された後だったこともあって、このとき『鏡子の家』の印税収入を当て込んでロココ調の豪邸を建てた程、自信満々の体だったのだ。そこへきてこの賛否両論は、相当にこたえただろう。これで何か勢いを削がれたところが、あるいはあったのかも知れない。それ以降、三島は元々関心のあった政治的問題に重心を移すようになり、純粋な美への関心を失っていってしまった。勿論その後の作品においても評価の高いものはあるけれども、それは若い頃のようにひたすら情熱に駆られて書いたものとは思えず、どこか無理をしているような印象が否めない。三島は早熟の作家だったが、枯渇するのも早かったという事だ(因みに太宰治はこれとは逆で、大器晩成型だったと思っているが、それはまた別の機会に話す)。

私は何もこれをあの禍々しい市ヶ谷駐屯地での自決と結びつけるつもりはない。あの自決の動機について、何を言っても憶測の域を出ないだろうし、またそれは色々なところで語られている事であろうから、ここでまた敢えて書くつもりはない。私が言いたいのは、この『金閣寺』が三島由紀夫という作家の紛れもない絶頂だったということである。そしてこの作品には先に述べた「子供っぽい」などという謗りをものとのしないほどの魅力があるのだ。それを分かってもらいたかったのである。この作品、文章も論理的ではあるし、下調べも入念だが、構成としてそれほど緻密に計算された痕跡はない。むしろ純粋な思いを書き綴っていった形の作品であると思う。三島由紀夫の若さの情熱と筆致における技巧とが最大限に高まり、調和した作品、それが『金閣寺』である。

2013年1月19日土曜日

『ライ麦畑でつかまえて』:J.D.サリンジャー

 最初なので、とりあえず肩ならしに軽めの作品を取り上げる事にする。多分肩肘張らないように心がけていても無意識のうちに力が入ってしまうと思うが、まあそのうち慣れてくれば気楽に書けるようになるだろう。「です・ます」調から「である」調に変わったのも正にその一環で、その方が率直にものを書きやすいと思ったのだ。
 で、本作はと言うといきなり海外文学で、しかも私の得意でないアメリカ文学な訳だが、まあとは言えこれほどの有名作品であれば得意でなくても読んでいて当然であり、そういう意味で本作は『グレート・ギャッツビー』と双璧をなす位置づけな訳だ。

 私は、いつ何がきっかけでこれを読んだのか忘れてしまったのだが、今現在でさえ日本語訳は村上春樹訳しか読んだことのない所を見ると、恐らく村上春樹を読んでいた頃にその繋がりでついでに読んだのだと思われる。
 よく言われるように、この作品の大きな特徴は、思春期特有の何もかも気に入らない反抗的な心情を歯切れのよい文体で綴っている事だ。例えば次のような箇所。

「人生とはゲームなんだよ、あーむ。人生とは実にルールに従ってプレイせにゃならんゲームなんだ」
「はい、先生、そのとおりです。よくわかっています。」
ゲームときたね。まったくたいしたゲームだよ。もし君が強いやつばっか揃ったチームに属していたとしたら、そりゃたしかにゲームでいいだろうさ。それはわかるよ。でももし君がそうじゃない方のチームに属していたとしたら、つまり強いやつなんて一人もおりませんっていうようなチームにいたとしたら、ゲームどころじゃないだろう。お話にもならないよね。ゲームもくそもあるもんか。

 これを読んだ時、既に私は思春期ではなかったが、それでも妙に共感したものである。
まるで過去の自分を見ているようで、可愛らしく思った(今でもそんなところはあるが)。思春期というのは、こういう世の中のどうにもならない理不尽に、気付き始めてくる頃なのかも知れない。
 確かに世の中は理不尽で満ち溢れている。学力のある人は、容姿に恵まれた人は、お金持ちの家に生まれた人は、何かの才能を持って生まれた人は幼少の頃から皆に愛されて育つ。すると社交的になり、コミュニケーション能力を磨く機会にも恵まれ、またそうした人間関係の中で磨かれた能力によって更に魅力的な人間になる。生きるモチベーションも生まれやすく、様々な事に興味がわいてくる。すると生きているのが楽しく、明朗な、更に愛される人間になるだろう。反対にそうでない人は人から愛されず、いじけた性格になり、人からは疎まれ嗤われ虐められて、恨みつらみを糧に生きる事になる。すると何をしても楽しくないし、詰まらない。人付き合いも避けるようになる。コミュニケーション能力なんて磨く機会すらない。努力なんてするモチベーションだって湧かないし、そもそも他人に認められる為にどんな努力をしたら良いのやら、人間関係を知らないから全然見当もつかない。しかし他人からはそれらは単なる努力不足と解されてしまう。などなど、考えてみれば本人の努力とか情熱とか言うよりも、単に運不運で人生殆ど決まってしまう。これは考えてみれば恐るべき理不尽である。大人になると何となくそれが当たり前になって、そう言われても大して何も感じなくなるものだが、十代の少年少女からみればそれらは未知の世界であり、嘘っぱちばかり教えてきた親や教師やマスコミに対し怒りを覚えるだろう。
 本作はそういう思春期のやり切れなさが、文体から滲み出ている作品だ。原書を読むと、胸くその悪い気持ちが英語特有のスラングで表現されていたりするのだが、村上春樹の訳はそこがとても自然な形で日本語化されていて、上手いと思った。あまり沢山引用すると著作権的にまずいかも知れないので書かないが、流石に早稲田の英文学科を出ているだけある。
 また、思春期の感受性の強さは何も理不尽ばかりを感じるわけではない。あらゆる感情に対して敏感であるのだ。弟のアリーが死んでしまって、窓ガラスを拳でたたき割るところの描写には、思わず涙が出そうになった。野球のグローブに詩が書いてあるなんていうのも、本当に涙を誘う。
 ストーリーとしてはあまり構成的ではなく、起こった事、思った事をそのまま描写していくというスタイルの、純文学的な作品である。人間関係もあまり込み入ってはおらず、一度しか出番のない登場人物も沢山いるくらいである。ただし、不潔なアックリーや単細胞のストラドレイターなど、クラスに一人はいたような人物ばかりで、印象には残りやすいと思う。思わずニヤリとさせられる事請け合いだ。

 最後に、先ほどの話に戻るが、世の中の「理不尽」を、思春期もしくは若い頃に敏感に感じ取り、それを大人になっても、いや死ぬまで考え続けられることが作家としての才能の一つなのではないかと個人的には思う。実存主義文学に見られる所謂「不条理」や、ドストエフスキーの神は存在するのか?という絶えざる問い、あるいはサルトルの「自由」の概念もこの理不尽さに端を発しているのではないかと思わずにいられないのである。
 まあこの話題は本作とは直接関係のない話なので、それはまた今度。

2013年1月18日金曜日

すいません

本当は今日から本格的にブログを書き始める予定だったのですが、私、風邪を引いてしまいまして、ちょっとそこまでの気力が保てない状態なのです。
なので、誠に残念ではございますが、今日はお休みをさせて頂きたいのです。
立ち上げ早々済みません!が、明日からは遅ればせながらもちゃんとした文藝批評を書いていくつもりですよ〜。
ということで、もうちょっとだけ待ってください。

とりあえずビル・エヴァンスでも聞きながら安静にしている事にします。
何だかほっとするな〜。

2013年1月17日木曜日

自己紹介等


なんだかいきなり本題に入るのも唐突過ぎるなと思ったので、自己紹介でも。
私、当ブログ管理人の熊谷と申します。
芸術とか何とか抜かしてますが、私大雑把でがさつで、繊細さの欠片もない人間ですw

文学が好きなので、メインテーマは文学の話になると思いますが、昔音楽をやっていた事もあり、今でも細々と音楽を聴いていますので、たまに音楽の話になるかもしれません。
また、もっとたまさかの事ではありますが、美術鑑賞などもしているので、その話題に触れる事ももしかしたらあるかも、という、そんな予定です。
でもあくまでメインテーマは文学ということですね。

文学と呼ばれるものならおおよそ何でも読みますが、中でも三島由紀夫や太宰治などの古典文学や、ドストエフスキーやカミュといった海外の古典も好きでよく読みます。
哲学書も好きで、そっちの方もよく読んでいます。
結構堅苦しいのが好きだったりもしますが、現代作家の作品もたまに読んでいます。
中村文則とか、絲山秋子という作家は結構好きですね。
まあ読んできたものは本当に多岐に渡るので、詳しい話は追々個別にしていきたいなと思います。

最近は太宰治の全集を買って読み直しており、若い頃に読んだのと感じ方が全く違う事に驚いています。
そして改めて太宰は偉大な作家だと思います。
人生経験が増えると共感できる部分が多くなるのかもしれませんね。

とまあここまで書いてみて思ったのですが、あらたまって自己紹介などを書こうとしても何を書いたらいいのかさっぱりわかりません。
本題に入りつつ、その中で私自身の事も語っていければ良いかなとも思います。

はじめに

はじめまして。

自分の芸術志向を何か形にしたいと思い、ブログを立ち上げてみました。
自分が味わって「これはいいな」と思った文学や音楽、美術などを紹介していきたいと思います。