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2013年1月29日火曜日

『ねじまき鳥クロニクル』:村上春樹

お知らせ:『芸術的生活を目指すブログ』から『文学的生活を目指すブログ』に改題しました。何か文学のことしか書かなそうな気がするので。


流行作家、という言葉は、昨今村上春樹の為にある言葉のようである。村上春樹という作家はそのくらいに現代作家にとって神格化された作家である。新人の作家がちょっとネガティブなことを書こうものなら即座に「村上春樹亜流」などと揶揄される。尤もこれにはたぶん別の事情もあって、村上春樹は芥川賞を逃してからというもの日本の文壇と仲が悪く、海外で活躍する彼を日本の文壇が嫉視するきらいもなきにしもあらずである。しかしそうした現象も村上春樹の存在の大きさを示すものと見ることができるであろう。

勿論、そういう作家は世間一般においても風当たりは強い。好きな人がいる分嫌いな人も多いだろうと思う。私自身はと言うと、実はあんまり好きではないのである。いや、よく理解できていないだけなのだと思う。上手いのはわかる。間違いなく上手い。飾り気のない文体も、人物描写も、何気ない一言も、ストーリーも設定も感心するほど上手いのである。クリエイティブな才能があるんだろうなあと思う。だがそれでも面白いとは思わない。何かが違うのである。核心を突いていないというべきか、命をかけるほどの必死さがないというべきか、とにかく上手いなあと思うほどには好きになれない。

誰に似ているかと言えば、第一に、森鴎外に似ている。というと大抵驚かれる。だが精神性とか、創作に対する態度が似ているのだ。鴎外には、文学を人生のそのものとして捉える、愚かしいまでの必死さがない。精神的に追い込まれてもいない。ただ頭のいい人が教養の一つとして、仕事の一つとして創作に携わっているのだ。創作だけではなく翻訳も、評論もそうである。何でもできる器用な人なので、何にも悩まない。というか悩むくらいなら最初からやっていないだろう。そこには余裕が感じられる。そしてどこか冷めている。

村上春樹は勿論、軍医ではない。作家になる前はジャズバーを経営していたそうだが、とっくに専業作家である。決して片手間に文学をやっているわけではない。バックグラウンドは鴎外とは似ても似つかない。しかし創作に対して持っている冷めた態度は妙に似ている。器用で、何でも書ける。歴史、サスペンス、SF、恋愛、評論、ルポルタージュ、エッセイなどなど、何でもいける。そして勿論、翻訳もプロだ。お分かりだろうか?そこに一切自分というものが介在していないのだ。創作はあくまで創作であり、決して人生哲学的や苦悩の結晶ではないのである。純文学とか言うと、恐ろしく苦しみ抜いた自分の思想語りが好きな人が多い。そういう作家が好きな人は、恐らく村上春樹を好きになれないだろう。私もそうである。しかし、自分の思想とか哲学とかよりは、創作を純粋に創作として楽しんでいた方が長続きしそうだなと思った。

そうそう、これはあまり深入りしないけれども作家以外だとポール・マッカートニーに似ている。ポールは何となく器用すぎて好きになれない、特にソロ作品が、というビートルズマニアは結構多いような気がする。そう、ジョン・レノン的な人生そのものの投影がないのである。村上春樹はそういう意味でポール的である。

というわけで『ねじまき鳥クロニクル』について何も書かないまま結構な文字数になってしまったが、これは村上春樹の器用さ、クリエイティブさが遺憾なく発揮された作品と言って良いように思う。物語の間に割り込んでくる挿入が素晴らしい。恐らく、ドストエフスキーに影響を受けたのだろう。


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