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2013年1月25日金曜日

『1984』:ジョージ・オーウェル

そう言えばこちらのブログで紹介するのを忘れていたが、右の「管理人のブログ」のところにそれぞれ「夏目漱石研究」「芥川龍之介研究」「太宰治研究」「三島由紀夫研究」というブログへのリンクが貼ってある。研究とは言ったものの、そんなに大それたものではなく、そもそも私は文学部を出ているわけでも専門的な研究をしている訳でもないのでそんな学術的なものが書けるはずもなく、ただ読者の方々の読書のきっかけになってくれればいいなという気持ちで綴っている。こちらは毎日更新というわけにもいかないが、なるべく二三日おきには更新するようにするので、こちらも是非ご覧頂きたい。

さて、本題に入ろう。『1984』は世界的名著であろうが、私にとっても本作はかなり衝撃的な作品で、何度も読み返した上に原著まで読むに至ったくらいに好きな作品なので、書かせて頂こう。

あらすじを書こうと思ったが、面倒なのでウィキペディアなどでご覧頂きたい。が、たぶんネタバレしているので、きちんと作品を楽しみたい方は本を読んだほうがいいだろう。いや、絶対に読んだ方が良い。これはもう読むしかない。恐ろし過ぎて鳥肌が立つくらいの作品だ。

この作品は通常SFにカテゴライズされるらしく、確かにテレスクリーンや、自動小説執筆機、あるいは記憶穴など、未来の世界を描いている以上、科学技術的にはSF的な要素もあるに違いない。だが別にそうした技術的な発想がそれほど飛び抜けて卓抜している訳ではない。というか1984年どころか2013年にもなる昨今、ここに書かれているくらいのことは技術的には殆ど可能になっているだろう。

この小説はSFではなく、哲学小説として読むべきだ。なぜなら、「全てを疑って考える」という哲学の原則の重要性をこれほどにまで身にしみて実感させる小説はないからだ。私たちは基本的にだまされているのである。権力者に都合の良いように教育、統制され、しかもそれを当然の正義と見なすべく促されているのである。例えばある一定の言語を使ってものを考えると言うことは、それ自体で一つの思想統制を受けていると言っていい。論理とは言語を前提としており、言語によって「当然の理屈」だって恣意的に変えられてしまうからだ。例えば数学という最も厳密な論理性をを要求する学問でも、ある一定の言語の中でのみ論理的であるのであり、他の言語の下では「2+2=5」になるかも知れないのだから(これは本作の中で実際に出てくる数式である)。つまり「当たり前のこと」なんて何もないのである。主人公のウィンストンは党に対して反抗的な意志を持っていたが、拷問を受けつつ真実を諭されるにつれ、「実のところ間違っているのは私の方ではないか?」と思わされるにいたり、ついには専制君主たるビッグブラザーを心から愛するようになる。それは何者かによって強要されたのではなく、彼自身が心の底からそう思っているのである。より正確に言えば、心からそう思うように仕向けられたのだが。読んでいるこちらさえ「ビッグブラザーや党が悪役である」という観念が揺らいでくるのだ。「確かに個人の自由など何の役にも立たないのかも・・・」なんて思うに至るのだから、本当に恐ろしい。何が正しくて何が間違っているのか、本作を読み終える頃にはさっぱりわからなくなっているのである。

反共産主義、反集産主義だとか、あまり政治的なことは考えなくて良いように思う。なぜならこういう生まれながらにして思想、行動、言論を統制下に置かれ、それを全く疑問視できない、疑問に思う能力すら与えられない社会というのは現代の日本においてもあり得る話であるからだ。勉強ができた方が良い、スポーツが得意な方が良い、先生からほめられた方が良い、友達が多い方が良い、異性にもてた方が良い、仕事ができた方が良い、素直な性格の方が良い、お金を持っている方が良い・・・。ありとあらゆる思想統制、価値観の画一化がこの国においても行われているではないか。そしてそこに染まれない者を排斥し、いじめ、心からその価値観に染まるか自殺するまで追い込む。そしてそれは暗黙の「正義」となっており、立派な人物の特徴とまで考えられるに至っている。しかしよく考えてみればその価値観に大して意味はなく、その価値観を信仰する者が多いからこそそうすることに意味が生まれてくるに過ぎない。隠れたファシズム、全体主義。正にこれは日本人こそ読むべき本であるかも知れない。

村上春樹が最近『1Q84』なる長編を出したが、私は『1984』が何となく剽窃されたような気がして、そのタイトルを見たときに少々苛々した。しかし何か関係があるのかも知れないので、買って読んでしまった(思うつぼ)。すると中にはこういう趣旨のことが書いてあった。

今はビッグブラザーの時代ではない。ビッグブラザーはもういない。なぜなら誰かが人民を統制しようとすると、「見ろ!あいつはビッグブラザーだ」と言われてしまうからだ。ビッグブラザーはもう表れない。これからはリトルピープルの時代だ。

しかし「ビッグブラザーは悪者である」という価値観さえ疑われる世の中で「見ろ!あいつはビッグブラザーだ!」と言われたくらいで、ビッグブラザーはいなくならない。そういう表面的な勢力争いの話ではないのである。指導者を疑うことすら既に仕組まれた思想統制の一つなのかも知れないのだ。『1984』に書いてあるのはそういうことなのだ。

組織、集団、国家などに身を置いている以上、この摂理を免れることは不可能だろう。

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