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2013年1月22日火曜日

『城の崎にて』『小僧の神様』:志賀直哉

志賀直哉について一言で言い表すとすれば、珍しく毒気のない作家だと言う事である。文章もさっぱりしているし、内容もあまり小難しくない。ゆったりとして鷹揚で、安らぎを感じる文体だ。純文学と言うと、毒気のある作家がむしろ当たり前であって、その中で却って新鮮だ。三島由紀夫とはそういう意味で、真逆の作風である。

『城の崎にて』は私の通っていた高校の国語の教科書にも載っていた。今更説明は不要だと思うが、敢えて書こう。これが何故名文と言われるのか。それは多分、この毒気のなさが関係していると思われる。すなわち、この衒いのない文章で日常の何気ない風景を描きつつ、しかもそこから死とか、その意味とか、哲学問題の核心を見事についているからだ。ゆったりとしていつつ、それでいて実に鋭いのである。

蠑螈は偶然に死んだ。自分は偶然に死ななかった。

この一文に全てが込められている。そしてここに「自分」は生き物の淋しさを感じる。この淋しさとは何か?それは多分、生きているのも、死ぬことにも、大して意味はない、という実存主義的な考えではないだろうか。生き物は偶然生まれ、偶然に死んでいくのである。それらに何の必然性もないのである。死ねば、その人はいなくなる。自分を知っていた人も皆死んで、自分が生きていた痕跡など何もなくなり、その人が存在した事実自体がなくなるのである。なぜなら、その証人がいないからである。そう神はいない、ということだ。これは無神論的な考え方だ。

これは別に生き物や生死だけの問題ではない。この世に何一つ、必然的な存在などありはしないのだ。全てが偶然の産物。そしてその裏には何の意味も本質も隠されておらず、ただただ存在している。物事は、形以上の意味を持たない。これは淋しいことである。ただその理屈を言うのは簡単だが、その淋しさを表現する事は、とても難しい。この作品はあの短い文章の中でそれに成功しているのだ。ある意味これほど秀逸な実存主義文学は古今東西探してもなかなか見当たらない。

『小僧の神様』では、その奇を衒わなさが一種の開き直りのレベルにまで達している。途中で書くのを止めてしまうのである。これはもう離れ業であって、物珍しいという以外の感想はない。


この次は『暗夜行路』について書きたいのだが、手元に本がない。実家においてきてしまった。

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