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2013年1月24日木曜日

シュルレアリスムについて

日本でシュルレアリスムの第一人者と言えば、巌谷國士氏である。巌谷氏の『シュルレアリスムとは何か』を読めば大方シュルレアリスムの何たるかが分かるであろう。


シュルレアリスムと言うと、ダリやピカソの絵を思い浮かべるかも知れない。その影響で、何か意味の分からない事をやっているイメージが強いという人も多いと思う。結果的には大体その通りで、シュルレアリスムは文学、美術に限らず意味の分からないものが多い。ここでは文学としてはアンドレ・ブルトン、美術としてはマックス・エルンストを取り上げたいと思うが、いずれもかなり難解、というよりこんなものに最初から意味なんかないんじゃないか?と疑いたくなるくらいの無作為ぶりである。

ここで二つの疑問が浮かぶ。何故こんなにも意味の分からない事になってしまうのか?そしてそれにもかかわらず何故シュルレアリスムはこれほどにまで人々を惹き付けるのか?

最初の疑問については、前述の巌谷氏の著書を読めば解決する。コラージュというを例にとってみよう。コラージュは、写真やイラストなどを組み合わせて構成する美術的手法である。今でこそこれが作為的になり、パソコンで写真を組み合わせる、というような実際的な手法になっているが、実はこれは元々無作為に絵や写真を組み合わせて偶然的成果を得る手法だったのだ。無作為に切り抜き、無作為にぺたぺた貼り付ける。これによってあのマックス・エルンストの百頭女のような訳の分からない絵画が生まれる。要するに、シュルレアリスムとは、自分の意志を介さずに偶然の赴くままに何かを生み出す手法なのである。偶然のなせる技こそ神の意志の投影であると、そういうことなのである。これはアンドレ・ブルトンの文学についても同じで、いわゆる「自動筆記」というものがそれである。とにかくもの凄い速さで書くのだ。何も考えない、ただ頭に浮かんできたままをそのまま書くのである。これでは意味が分からなくて当然である。書いている本人だって、あまりよく分かっていないに違いない。これは所謂「意識の流れを記述する」という手法で、そういう意味では『失われたときを求めて』もそうだし、『ユリシーズ』なんかもそうだろう。先日紹介した『嘔吐』もその部類に入るかも知れない。

では二つ目の疑問はどうしたことだろう?これはどうしても分からない。分からないが確かに惹き付けられている自分がいるのである。憶測で書かせてもらうと、「分からないもの」への興味ではないかと思う。人間、「理解できないもの」ほど恐怖する存在もないが、同時に惹き付けられる存在もないのである。理屈で分かりきっている事、理解できて当然の事など退屈で、詰まらない。他の誰かによって答えの出されている問題など誰も興味を得られないのである。学校の勉強のようなものだ。誰かの計算し尽くした道など、誰も歩みたくはない。しかしシュルレアリスムには、答えが与えられていない、誰にも理解できない「聖域」がある。これは恐らく答えの存在しない問題を考える哲学にも共通した興味であろう。

要するに、感じ方、解釈はそれを受け取る人の自由だというのがシュルレアリスムの魅力だと言う事だ。これぞ芸術の醍醐味である。

代表的な作品を貼っておきます。


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