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2013年1月27日日曜日

『山の音』:川端康成

川端康成は、日本人初のノーベル文学賞作家という以外に特に目立った特徴のない作家のように思える。勿論、『雪国』や『伊豆の踊り子』などは有名だし、国語の教科書にも載っているくらい国民的な作家である事に間違いは無く、また文壇での地位もよほど高かっただろう。しかしそれでも川端康成の文体、と言われて「ああ、ああいう感じね」と咄嗟に思い浮かべる事は難しい作家だと思う。例えば、志賀直哉(簡素平明)とか、三島由紀夫(豪華絢爛)とか、安部公房(理屈っぽい)とか、太宰治(自虐的)とか、その他個性の強い作家はもう名前を聞くだけで大体どんな作風なのかというのが想像できる。大江健三郎のような代表作の名前すらぱっと出てこないような作家でも、文体は陰気くさく、特徴的ではある。が、川端康成はまあ日本的な、美しい文章を書く人だという事だけは分かるけれども、飛び抜けて特徴的な毒々しさといったようなものは、印象にあまりない。少なくとも私にとっては、川端康成はそんな作家だった。

ところがこれが大きな間違いで、川端康成ほど毒々しい、狂気に満ちた作家はなかなかいないのである。いや、そうは言ってもぱっと見た感じそういう気はしない。やはり文体はどことなく大人しくて、少し読んだ程度だと「きっと真面目な事が書いてあるんだろうな」という印象を抱きやすい。しかしきちんとその内容まで踏み込み、かつ一定の量を読んでみると、実はドロドロとした人間同士の愛憎がかなり緻密に描かれているのである。これはなにも『眠れる美女』や『みずうみ』など異常な性癖を持つ主人公を描いた作品の事ばかりを言っているのではない。一見普通の人たちを描いた作品でも実は昼ドラ的な毒々しさ、異常さが含まれているのである。

『山の音』はそんな小説の代表格である。信吾という還暦を過ぎた(当時としては)老人が主人公であるが、この爺さんが一見まともなふりして、実はかなりくせ者なのである。いや、この爺さんだけではなくこの爺さんの一家が皆くせ者ぞろいで、なかなか一筋縄にはいかないのである。信吾の妻、保子は亡き姉に似ずに醜かった。信吾はその昔、保子の姉に憧れながらも、その妹と結婚した。そして信吾は内心、生まれてくる娘が保子を伝って保子の姉のように美しく生まれてはくれないかと密かに期待していたのだが、生まれてきた娘(房子)は母親より更に醜かった。その房子がヤクザ者(哀川)の家に嫁いだが、不仲になり、娘と赤ん坊を連れて出戻ってくる。その醜い出戻りの娘を信吾や保子は持て余しながらも、自分の娘なのだから身から出た錆と内心諦め、それでも頭を悩ませているのである。そして極めつけは赤ん坊に乳をやる房子を信吾が見たときの描写がこれだ。

顔はみっともないが、乳は見事だった。

アホである。大きい方の房子の娘も何だか不気味な性格で、蝉の羽を毟って、芋虫のようになったそれをみて楽しんでいるというのである。しかも自分のそんな猟奇的な姿に周りの大人が誰も関心を向けていないと悟るや否や、それをポイッと捨ててしまったりする。保子はそういう不気味な孫娘を嫌っている。

房子の弟(信吾の息子)の修一というのがいるのだが、これがまた手の付けられない程のプレイボーイで、菊子という妻がいながら外で他の女と遊び歩いているのである。信吾は菊子を不憫に思いながらも、その可憐さに淡い恋心を抱く(息子の嫁に!)。修一の素行の悪さを何度と無く咎める信吾ではあったが、菊子が身ごもった子供を流産してしまい・・・。

他にも色々あるのだが、きりがないのでこの辺にしておこう。とにかくこれだけでもかなり屈折した家族である事が伺い知れるだろう。川端康成とはとにかく、それくらい屈折した作家なのである。

そもそもこの作家は幼少時代に数多くの近親者の死に見舞われており、非常に数奇な運命をたどってきた人なのである。そういう幼い頃に味わった天涯孤独の運命の無情さが、身に沁み付いているのかも知れない。そう思うと72歳にもなってガス管くわえて自殺するのも(これには諸説あるが)、何となく彼らしい最期のような気がしてくる。



『掌の小説』は個人的におすすめである。掌篇小説というやつで、3ページくらいの短い小説を集めたものなので、隙間時間にさっと読む事が出来ていい。それでいて結構質も高い。

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