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2013年1月30日水曜日

中島義道

今日は少し趣向を変えてみよう。今日は存命の哲学者、作家、エッセイストの中島義道についてだ。彼は多分、本を読む人のうちではちょっとした有名人だろう。私は彼の『差別感情の哲学』という本を読んで、すっかり彼の文章に共感し、それから何冊も彼の本を買っては貪り読み続けたものである。



一般的なイメージとしては、かなり虚無的な、ぐれた、反社会的なことを書く人だというのが浸透していると思う。『人生に生きる価値はない』とか『どうせ死んでしまうのになぜ今死んではいけないのか』というようなタイトルが目につく以上、ある程度仕方のない事かも知れない。『ぐれる!』とか、かなりストレートなものもある。

けれども、私はそうとは思わないのである。割と虚心坦懐に、ありのままを観察しようとしている人だと私は思っている。そうすると世間一般の常識に沿わない場合が多々あるため、反社会的だとか思われざるを得ない。だがやはり哲学者というものはそういうものと昔から相場が決まっていて、常識を疑う、そして理屈で証明されたことは如何に非常識なことであっても厭わずに口にするというのはもう哲学者の仕事のようなものだから、そういう「哲学的」営みを彼も踏襲しているに過ぎないのであろうと思う。だから彼が「希望を持って行きよう」と書いた時には、それはかなりの重みを持っていた。私は涙しそうになった。

何でも、少年時代、青年時代を通じて不幸な人だったらしいのだ。勉強しか好きな事のない人だったらしい。東大文科一類に現役合格する程の学力の持ち主でありながら、内気で繊細で、思った事が口に出来なく、親にも教師にも周りの空気にも抗う事が出来ず、そのくせ偏食だとか、学校のトイレにいけないとか、体育が苦手だとか、そういうコンプレックスを始終感じ続け、そういう自分を変えたいと思ったのか何でも良いから反抗したいと思ったのか、大学では法学部に進まずに哲学の道を選び、そうすると就職する事も出来ず、家に引きこもり、「いつか死んでしまう」と布団の中で考え続け、やっと予備校講師の職にありついたと思ったら全然人気が出ず、30歳を超えてからドイツに哲学をする為の私費留学をして・・・。というようなもう波瀾万丈どころかどうしてそんなにしなくてもいい苦労を自ら選んでし続けるのだろうという人だ。

やはりこうした波瀾万丈な人生を選んだ人は、自分語りが好きだ。自分はこんなに辛くてこんなに可哀想で、という話が実に多い。それには私も若干食傷気味である。だがそこから導き出された自由な発想と、奔放な反逆精神は何とも痛快である。読み物としては半端じゃなく面白い。真面目すぎて頭の固い人は是非一度読んでみる事をお勧めする。人生観が変わること請け合いである。

しかし影響されすぎると、それはそれで良くない。良くないというより辛い。何が良くて何が悪いのか、何が正しくて何が間違いなのか、考えても考えても分からなくなってくる。哲学、というのは多分そういうもので、私が哲学にハマるきっかけになったのも実はこの人だったのだが、哲学をしたての頃はそれはそれは辛かった。もう何もかもが間違いのような気がして、何一つ寄る辺のない人生を送っていた。あくまでこれは一つの考えで、あくまで自分は自分というスタンスを貫いてもらいたい。

代表的な書籍のリンクを貼っておく。お好みでチョイスしてほしい。





哲学的主著はこれだろう。


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