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2013年1月19日土曜日

『ライ麦畑でつかまえて』:J.D.サリンジャー

 最初なので、とりあえず肩ならしに軽めの作品を取り上げる事にする。多分肩肘張らないように心がけていても無意識のうちに力が入ってしまうと思うが、まあそのうち慣れてくれば気楽に書けるようになるだろう。「です・ます」調から「である」調に変わったのも正にその一環で、その方が率直にものを書きやすいと思ったのだ。
 で、本作はと言うといきなり海外文学で、しかも私の得意でないアメリカ文学な訳だが、まあとは言えこれほどの有名作品であれば得意でなくても読んでいて当然であり、そういう意味で本作は『グレート・ギャッツビー』と双璧をなす位置づけな訳だ。

 私は、いつ何がきっかけでこれを読んだのか忘れてしまったのだが、今現在でさえ日本語訳は村上春樹訳しか読んだことのない所を見ると、恐らく村上春樹を読んでいた頃にその繋がりでついでに読んだのだと思われる。
 よく言われるように、この作品の大きな特徴は、思春期特有の何もかも気に入らない反抗的な心情を歯切れのよい文体で綴っている事だ。例えば次のような箇所。

「人生とはゲームなんだよ、あーむ。人生とは実にルールに従ってプレイせにゃならんゲームなんだ」
「はい、先生、そのとおりです。よくわかっています。」
ゲームときたね。まったくたいしたゲームだよ。もし君が強いやつばっか揃ったチームに属していたとしたら、そりゃたしかにゲームでいいだろうさ。それはわかるよ。でももし君がそうじゃない方のチームに属していたとしたら、つまり強いやつなんて一人もおりませんっていうようなチームにいたとしたら、ゲームどころじゃないだろう。お話にもならないよね。ゲームもくそもあるもんか。

 これを読んだ時、既に私は思春期ではなかったが、それでも妙に共感したものである。
まるで過去の自分を見ているようで、可愛らしく思った(今でもそんなところはあるが)。思春期というのは、こういう世の中のどうにもならない理不尽に、気付き始めてくる頃なのかも知れない。
 確かに世の中は理不尽で満ち溢れている。学力のある人は、容姿に恵まれた人は、お金持ちの家に生まれた人は、何かの才能を持って生まれた人は幼少の頃から皆に愛されて育つ。すると社交的になり、コミュニケーション能力を磨く機会にも恵まれ、またそうした人間関係の中で磨かれた能力によって更に魅力的な人間になる。生きるモチベーションも生まれやすく、様々な事に興味がわいてくる。すると生きているのが楽しく、明朗な、更に愛される人間になるだろう。反対にそうでない人は人から愛されず、いじけた性格になり、人からは疎まれ嗤われ虐められて、恨みつらみを糧に生きる事になる。すると何をしても楽しくないし、詰まらない。人付き合いも避けるようになる。コミュニケーション能力なんて磨く機会すらない。努力なんてするモチベーションだって湧かないし、そもそも他人に認められる為にどんな努力をしたら良いのやら、人間関係を知らないから全然見当もつかない。しかし他人からはそれらは単なる努力不足と解されてしまう。などなど、考えてみれば本人の努力とか情熱とか言うよりも、単に運不運で人生殆ど決まってしまう。これは考えてみれば恐るべき理不尽である。大人になると何となくそれが当たり前になって、そう言われても大して何も感じなくなるものだが、十代の少年少女からみればそれらは未知の世界であり、嘘っぱちばかり教えてきた親や教師やマスコミに対し怒りを覚えるだろう。
 本作はそういう思春期のやり切れなさが、文体から滲み出ている作品だ。原書を読むと、胸くその悪い気持ちが英語特有のスラングで表現されていたりするのだが、村上春樹の訳はそこがとても自然な形で日本語化されていて、上手いと思った。あまり沢山引用すると著作権的にまずいかも知れないので書かないが、流石に早稲田の英文学科を出ているだけある。
 また、思春期の感受性の強さは何も理不尽ばかりを感じるわけではない。あらゆる感情に対して敏感であるのだ。弟のアリーが死んでしまって、窓ガラスを拳でたたき割るところの描写には、思わず涙が出そうになった。野球のグローブに詩が書いてあるなんていうのも、本当に涙を誘う。
 ストーリーとしてはあまり構成的ではなく、起こった事、思った事をそのまま描写していくというスタイルの、純文学的な作品である。人間関係もあまり込み入ってはおらず、一度しか出番のない登場人物も沢山いるくらいである。ただし、不潔なアックリーや単細胞のストラドレイターなど、クラスに一人はいたような人物ばかりで、印象には残りやすいと思う。思わずニヤリとさせられる事請け合いだ。

 最後に、先ほどの話に戻るが、世の中の「理不尽」を、思春期もしくは若い頃に敏感に感じ取り、それを大人になっても、いや死ぬまで考え続けられることが作家としての才能の一つなのではないかと個人的には思う。実存主義文学に見られる所謂「不条理」や、ドストエフスキーの神は存在するのか?という絶えざる問い、あるいはサルトルの「自由」の概念もこの理不尽さに端を発しているのではないかと思わずにいられないのである。
 まあこの話題は本作とは直接関係のない話なので、それはまた今度。

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